毎年この時期になると思い出されることがあります。
自分が成人式に出席しなかったことを。
どこかで発信したかも知れませんが、私は大学に入るために3浪しました。
20歳のときには絶賛、浪人中。
失意の中、おめでたい席に自分が出席することは憚られました。暗い顔をした自分が周りのテンションを下げてしまうのではないかという他者意識からではなく、キラキラした知人らの姿に自分はきっと大きな劣等感を感じるだろうという利己意識からでした。
この日までの間に知人のおめでたい話は色々な所から間接的に聞いていました。そうした輝いている知人のリアルな姿と自分からの良い知らせが何もない事態はコントラストを余計際立たせ、きっと自分は試験前のこのとき、ぐっと落ち込んでしまうのではないかと考えたのです。
成人式だけではありません。私の浪人中の劣等感は、私を人のあらゆる集まりから遠ざけました。
ときどき、集まりに参加することはありましたが、知人の、仲間の、友人たちの無邪気な笑い声に耐えることが苦痛でした。
劣等感を抱えながらも人と付き合っているとき、こんな経験をしました。
「自分より下はいないだろうか?」
と。
…。
だから私は人から離れることにしました。
人と付き合わなくなると、劣等感を感じなくなりました。
人と付き合わなくなると、孤独を感じなくなりました。
人と付き合わなくなると、自分の内側と対峙することが出来ました。
人と付き合わなくなると、優越感を探すことをしなくなりました。
そんな状態を続けることで、私は3年をかけて希望の大学に入学することが出来ました。大学卒業後、大学院卒業後も、人付き合いと人離れを繰り返しながら、体験を通して感じていることがあります。それを最後に綴ってみたいと思います。
自分と同じ程度の人が、自分より上に行ってしまったと感じると、劣等感を感じる。
付き合う人の弱点を見つければ、劣等感は優越感に変わる。
自分の程度をはるかに超絶するような集団に加わってみる。
劣等感は畏怖に変わる。
立ち止まってみたいとき孤独になってみる。
劣等感はただ消え去る。
感情は変化する。
感情は変化させることが出来る。
そこに歩き出す前触れを見つけることが出来るかも知れない。
清水建二