本日のテーマは、各文化に属する人の「ウソの捉え方」に関してです。
ウソという言葉には定義があるので、ある人物の行為をウソかどうか客観的に判定することはできます。しかし、ウソをついている当人が自分の行為を非道徳であると考えていなければ、ウソのサインは決して出てきません。
ウソを非道徳な行為だと考えているからこそ、ウソをつくことに対して罪悪感や自己嫌悪などを感じるのです。
ウソをついている当人が自身のウソを非道徳であると思わない理由は多岐に渡りますが、ここでは文化に起因する例を挙げてみます。
Leeら(1997)が以下のような調査を報告しています。
集団にとって良い行為を行うために、ウソをつく子どもの物語があります。その物語を中国の子どもとカナダの子どもに読んでもらい、物語の子どもがついたウソに対して道徳的な評価をしてもらいます。
調査の結果、中国の子どもはカナダの子どもに比べて、社会的に良い行為をするためにつかれたウソに対して、肯定的に評価する傾向があることがわかりました。
これはなぜでしょうか?
中国のような集団主義的な国では、集団の利益になるウソは寛大に見られ、非道徳的な行為だとは捉えられないからだと考えられています。
この調査はあくまでも物語を題材にしたものではありますが、集団の利得を守るためにウソが非道徳であると考えられない状況というものは往々にあると思われます。
このような状況では、ウソがつかれてもその人物からウソのサインが生じることはないでしょう。
次回は、文化間のウソにおいて、ウソを見抜く側の問題を取り挙げたいと思います。
清水建二
参考文献
Lee, K., Cameron, C.A., Xu, F., Fu, G., & Board, J. (1997). Chinese and Canadian children’s evaluations of lying and truth-telling: Similarities and differences in the context of pro- and anti-social behaviors. Child Development, 64, 924-934. Reprinted in: Slater, A. & Muir, D. (Eds.) (1998). The Blackwell Reader in Developmental Psychology. London: Blackwell