私が様々な場所で表情分析の話をしていると両極端な反応が返ってきます。
好意的な反応としては、
「これは凄い!表情をこんなに論理的に説明出来るなんて!!色々なことに使える!!!」
というものです。
否定的な反応としては、
「表情なんて勉強しなくてもわかる。何の役に立つの?」
というものです。
私にとってこのようなセリフを聞くのはデジャヴなんです。
この「表情」という部分を「現代文」に置き換えたセリフを、私が受験生だった時代から講師として予備校の教壇に立っていた時代にかけて、耳にタコができるくらい聞き続けてきました。
現代文を習う、勉強するべきか、否か。
「習う、勉強するべき」という受験生は、もちろん現代文の得点が採れない、得点に波がある受験生です。また得点が安定して採れるようになっても現代文を勉強し続ける受験生は、読解スキルを錆びつかせないように、また同時に、さらなる高みを目指してトレーニングし続ける受験生です。
「習わない、勉強する必要がない」という受験生は、日本語なのだから勉強しなくても得点出来るハズ、という考えの持ち主か、意識して読み込まなくてもフィーリングで高得点を採る受験生です。
表情に関しても同じことが言えると思います。
空気が読めない、他者の感情がわからない、すぐにダマされる、今よりもさらに人の感情の深淵を知りたい、そうした人は表情を勉強する意味を感じるでしょう。
一方、フィーリングで他者の多彩な感情がわかる、そうした人は表情を勉強する意味を感じることはないでしょう。
現代文も表情もフィーリングでわかるという人の共通点は、読解スキルが暗黙知として血肉化されているからだと考えます。
現代文(つまり文章)には、書き方に論理的なルールがあるため、そのルールに意識的・無意識的問わず則って読めば、しっかりと読み解くことができるのです。
表情は現代文ほど論理的なルールが定まっているわけではありませんが、個々の表情筋と個々の感情とのつながりがあり、感情に対する「適切な」反応の仕方が心理学の知見によって明らかとなっています。したがって、その知見=ルールに意識的・無意識的問わず、則って行動すれば、適切な行動ができるのです。
意識的なルールの勉強か(=科学)、フィーリングか(=経験)、簡単に割り切れるものではないのですが、最近、ふと昔を思い出して、こんな比較を綴らせて頂きました。
追伸:
一番マズいのは、読めているつもりでも読めていないこと。
現代文は得点が教えてくれますが、表情は誰も教えてくれない…!
清水建二