二十歳のときにある事件に巻き込まれて以来、私は人がつくウソという現象に大きな関心をよせるようになりました。とりわけ、
どうすればウソを見抜けるようになるのだろうか、
と。
その答えを求め、犯罪学からプロファイリングを、統計学からベイズ確率論を、経済学からゲーム理論を、進化生物学から動物の擬態を、心理学からボディーランゲージなどを学んできました。
そんな中、表情の万国共通性を論じたポール・エクマン博士の書籍に出会い、表情学に傾注することになりました。
表情学を学び、微表情を読みとるトレーニングを受け、FACSという表情分析のための専門マニュアルを習得する過程で、オモテの表情のウラに隠された人の真の感情というものに敏感になってきました。
最初はウソを見抜くために学び始めた表情学でしたが、次第に人の感情に敏感になれることで、人の痛み、切なさ、やるせなさ、優しさ、いたわりなどに心を重ねている自分がいるのに気付きました。
時々、「微表情を読みすぎることでつらくなったりしませんか?」と尋ねられることがあります。
昔は、人があまりに「軽蔑」や「嫌悪」を微表情として顔に出すことが多いことに、傷つくことも確かにありました。
ただ今ではそれが人間なのだ、と思うようになっています。
それを達観していると形容なさる方もいますが、そのような崇高なものではなく、
それは人が生きていくために必要な自尊心ゆえの現象なのだと考えております。
私は大学に入るまでに3浪していたのですが、模試のE判定(E判定というのは合格可能性20%以下という一番下の評価)をいつも信じていませんでした。これは機械のミスだろうと。3浪目の冬の模試で受けた早稲田模試のE判定でさへ信用していまんでした。
結果、模試の評価を気にしなかったため、クヨクヨせず、大学に自信を持って受験し、無事、早稲田に入学することが出来たのです。
皆さんも似た経験ございませんでしょうか?
自分の運転技術は平均よりは上だとか思っている方、はい、挙手を。
確か、アメリカ人を対象にした研究では、大半が自分の運転技術は平均より上だと思っているという結果が出ていたと記憶しています。
平均って…。
逆に自尊心がない、というか現実をありのままに認識する、自己の能力の程度に正直な人は、うつ病の方に多いという調査結果を読んだことがあります。
何が言いたいのかと申しますと、自尊心がなくては人は前向きに生きていけない、だから自分を優位に考える「軽蔑」や他者の意見は受け入れず自分の意見だけを受け入れたいと考える「嫌悪」感情が、微表情として出るのは当然だと思うわけです。
それが人間というものなのだと思うのです。
だから私はこれからも人の顔を観続けます。
いろんな人の顔を観ていたいのです。
そこに刻まれる人の感情の履歴を残すために。
そこにある心に身を重ねるために。
清水建二