微表情

フラッシュのように一瞬で表れては消え去る微妙な表情、微表情。このブログでは、微表情、表情、顔を始めとした非言語コミュニケーションの研究や実例から「空気を読む」を科学します、「空気」に色をつけていきます。

儀礼としてのボディーランゲージ②

 

前回は犯罪者の表情を題材に特殊な事例を書かせて頂きましたが、今回は、身近な例で考えてみたいと思います。

 

様々なボディーランゲージを扱う書籍に「『腕組み』は自己防衛や批判のサイン」とか「『両肘を曲げ腰に両手を置く』のは自信のサイン」だとか書いてあります。

 

科学的に言えば、原則的には、自分のまわりの面積を狭くとるボディーランゲージはネガティブな意味を、自分のまわりの面積は広くとるボディーランゲージはポジティブな意味を持つことが知られています。

 

上記に挙げたような細かな動きに関して、「腕組み」は自分のまわりの面積を狭く取るボディーランゲージですし、「両肘を曲げ腰に両手を置く(アームアキンボー)」は自分のまわりの面積を広く取るボディーランゲージですので、一般的な書籍に書かれている内容は、解釈の幅を広めれば、間違いではないのです。

 

しかし、こんなことを思われる方がいらっしゃると思います。例えば、「腕組み」に対して、

 

「自己防衛とか批判とか、そういう意味はないよ。ただのクセ。」

 

確かに。

確かに私たちは単なるクセで「腕組み」など日常的にしていると思われます。

 

だがしかし、です。

「腕組み」をしていると楽ですよね。心地良い方もおられると思います。考え事を「腕組み」をしながら行うとはかどる、という方も多いかと思われます。

 

クセは儀礼なのです(言い切っていますが、これは私の推論で科学的証拠はまだありません)。

 

ある状況においてあるクセが出る。

 

それはそのクセをすると心地良いから。自分を心地良い状態にする必要があるから。クセという儀礼を通して、自分の状態を環境に適した状態にしようとするから。

 

前回の警察車両に乗り込む犯罪容疑者の例と同じロジックです。

 

ある状況で偶然あるボディーランゲージをしたら心地よかった、状況が上手く改善された、だから同じような状況に置かれたとき、そのボディーランゲージをする、それがクセと自覚するようになる。

 

そんな感じではないかと思います。

 

それが科学的に原則とされる意味を持つ場合もあれば、そのバリエーションや全く違う意味を持つ場合もあるのでしょう。

 

とどのつまり、

 

クセは環境適応のサイン

 

と考え、ある人物にあるクセが生じたら、

 

「あ、この人は今、環境に適した自分の状態を作ろうとし、問題に真剣に向き合おうとしているのだな。」

 

と暫定的に解釈するのが良いように思います。

 

表情よりもボディーランゲージの方がクセの解釈のバリエーション、個人差?と呼んでも良いようなものが多いと思います。日々、観察だと思う今日この頃です。

 

 

清水建二